Artist Statement
絵を描き始めました。
6年前から絵を描き始めました。美大在学中に絵筆を投げ捨てて以来、実に30年ぶりの再開です。といっても30年前は技術的にも精神的にも未熟なまま制作を中断し、その後、絵を描いていた時間よりはるかに長い時間を文章書きに費やしてきたので、再開というより初心者の気分に近いかもしれません。
なぜまた絵を始めたのか。いやその前にまず、なぜ絵をやめたのかから語らなければなりません。当時、70年代はミニマルアートやコンセプチュアルアート、もの派など極限まで切りつめた表現が美術界をおおい、モダニズムが袋小路に陥って身動きのとれない状態でした。もはやノーテンキに絵など描いていられない……と、時代のせいにしてみたくもなりますが、もちろんそれだけではありません。20歳前後の自分のなかでも生きることと表現することとの葛藤が渦巻き、はたして絵を描くことが生の直接性につながるのか、死を超えるにたる絵画制作は可能か、と問いつめたあげく放棄してしまったという面もあります。ま、要するに頭でっかちだったんですね。
いま思えば、そんな青臭い倫理と論理のために、少年時代からの(もっといっちゃえば人類普遍の)「絵を描きたい」という欲望を抑え込んでしまったのは、なんとももったいないことでした。その後、美術ジャーナリズムの世界で文章を書くことによって、「描きたい」という欲望はひとまず解消されたようです。とはいえ、実はこの30年のあいだに時おり「描きたい」という欲望が頭をもたげていたのですが、文章を書くこととの整合性がとれない(つまり両立できない)こと、また、若気のいたりとはいえ一度は制作を放棄した自分に対してオトシマエがついていないとの理由から、制作の再開にはいたりませんでした。
ではなぜこの期におよんで絵を描き始めたのかといえば、もうそんなことはどうでもよくなったからです。開き直りに聞こえるかもしれませんが、50歳を前にして父母をはじめ身近な人たちが相次いで逝くのを目の当たりにして、次は自分かもしれないし、そうでなくても残された時間は少ないと切実に感じるようになりました。はたして自分はなにをやりたかったのか、文字ではなく絵を描きたかったのではないか、ならばいまやらなければもうできないのではないか……。そんな切迫感のなかで、絵を描かない理由などとるにたりないことのように思えてきたのです。
そんなときでした。私もかかわっている横浜のBankART1929の近くの倉庫ビルが共同スタジオとして再利用されることになったのは。さっそく飛びついて一室を確保し、絵を描き始めました。
世界の巨匠シリーズ(2011)
モデルとなった『世界の巨匠シリーズ』は、60〜80年代に美術出版社から順次刊行された60巻を超す画家別の大型画集で、版元はAbrams社。白い箱入りで、表面には作品の図版とシンプルな書体で画家名が記されている。
この画集の存在は学生時代から知っていたが、カラー図版の色が悪いうえ別刷りで貼りつけられているのが気に入らなかったのと、なにより非常に高価だったので(徐々に高くなり最終価格8800円)買ったことはなかった。ところが数年前に何人かの画家の解説を書く必要に迫られて古本屋で購入したところ、テキストは古いとはいえ第一人者によるきわめて信頼性の高いものであることが判明。とくに近年は古本屋で安く手に入るため(原価の10分の1程度の巻もある)、ぼちぼち集めていたのだ。
シリーズは第1期50巻に第2期7巻と別巻5巻を合わせた全62巻だが、数が半端なうえ、西洋絵画を語る上では欠かせない「ファン・エイク」も「ルーベンス」も入っていないので、完結しないまま刊行が中断されているのかもしれない。また「カラヴァッジョ」や「フェルメール」は第2期に入っているものの、古本屋でも図書館でも箱のない軽装版しか見つからず、白い箱入り判が出たのかどうかも不明だ。
いずれにせよこのなかから約半数の30巻を自分の「趣味」で選び、先入観を排すため(画集もキャンバスも)天地逆にして制作した。しかし、いくら天地逆に描いても、たとえばエル・グレコならタッチを強調したり、スーラなら点描風になったり、どうしてもその画家の画風に引きずられてしまいがちだった。ま、それはそれでおもしろいものだが。 − 村田真 |