市 ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』で大地に口づけするシーンが出てくるんですけど、丹羽さんが水たまりに口をつけている姿から、そんな場面を思い出しました。丹羽さんは、作品の中に文学や映画や絵画の名場面などを引用することがありますか。
丹 いや、全くそれはないんです。少なくとも意図的に引用していたり、狙っているわけではないんです。むしろその逆で、可能な限りその場の現実的なことに向き合おうと思っていますから、映画や絵画などのイメージは排除しようと思っているくらいです。現実空間にどれだけ鋭く切り込めるかに賭けています。ただ、観客からは、市原さんと同じように、ある物語の大地に口づけするシーンを思い出すと一度だけそのような指摘されたことはありますね。また、懺悔しているようにも見えるとかも、言われたことがありますが、それも全く考えていなかったことです。
― 日本人らしさって何?
丹 やや長くなってしましたが、以上で過去の作品の解説は終了です。こう通して見ると、自分の活動に日本人のアーティストらしさということがあまり見えてこないんです。しょっちゅう海外に出かけて作品を制作していると、自分が「日本人である」という意識さえ希薄になってくる気がしている。国際的に活動しているというよりも、正確に言うとまさに国籍不明的に活動している感じになってきているんです。よくも悪くも、そうなんです。でも、果たして、日本人的であることを背負い続けることが、ぼくの活動に必要なのかどうかという疑問もありつつ、そうだしても僕は日本人であるという葛藤もあります。今は様々な情報があっという間に世界に流布してしまうから、ほとんど時差がなく、流行が広がってしまう。僕は世界中の多くの場所を訪れてきましたけど、ほとんどどこでも情報は共有されており、いわゆる「辺境」なんてどこにもない感じで。それをグローバリズムと呼んで批判することは容易いことだけど、じゃあどうするかということも考えないといけない。
市 確かに、アーティストの国籍を問うことの意味がもはや成り立たない部分があるような気がします。あいちトリエンナーレ2010にも参加していたスペイン生まれのアーティスト、サンティアゴ・シエラの作品と丹羽さんの作品とで、国籍の違いによるテイストの違いなんて感じ取れない。極端な話、両者の作品を入れ替えても違和感を覚えないかもしれないくらい。グローバル化は美術の世界でも進行しているのかも。ここまでくると、作家の個性とか創意工夫はどのようにして担保されるのかが分からなくなってくる。
丹 そうなんです。作家の履歴みないとどこの国の作家か分からないことも多いし。だからと問題なのかどうかは、僕自身結論だしていないんですが、世界の作家の傾向が似てしまう可能性は多いにある。共同体意識の問題かもしれないと思う節もあるんです、つまり国は結局のところ、集合体の範囲の問題なんじゃないかと。じゃあ、東京人と大阪人っていうことの無意味さを感じるなら、日本人とアメリカ人ということの無意味さもあるじゃないかと。そこでどこにオリジナリティーを確保するか。それとも、そもそもオリジナリティーなんて必要なのかという問題も。
市 先ほど丹羽さんは、ナショナルなるものへの懐疑心を表明していましたが、「公」(おおやけ、パブリック)、「私」(わたくし、プライベート)との対立という点についてはどのようなお考えをお持ちですか。丹羽さんは「私」の代表で、丹羽さんによって働き代えられる社会の方が「公」と考えればよいのか。それとも、丹羽さんが自身の「私」性を広く皆に知らしめようとする行為を「公」ととらえることもできると思うんですけど、丹羽さんはこの「公」対「私」とに対してどのようなスタンスで臨んでいるのでしょうか。
丹 先にも、日本人とアメリカ人とか言うことの無意味さと言いましたが、この国籍や民族のことは行ってみれば、「公」のイメージなんですね。つまり架空にしか存在しない共同体のことですね。アメリカ人なんていう人間はいないんです、いるのは個人個人ちゃんと名前のついた人間です。ですから、「公」が「私」を飲み込んで存在していたり、あるいは重なりあっていたりして存在しているものだと思います。「公」「私」というものが全く奇麗に別れて存在しているとは思えないですね。「公」のアメリカ人には殴りかかることはできませんが、「私」のアメリカ国籍の人には殴り返せば、怒って立ち向かってくるかもしれないという現実的な反応があるものです。
市 なるほど、丹羽さんにとって、重要なのは親密な関係性に支えられた「私」が世界中のあちこちに散らばっていることであって、理念としての「アメリカ」「ソ連」「民主主義」「愛国心」などは非常に縁遠いものとしてしか認識できないということなんですね。
丹 ぼくの場合は、明らかに個人的な行為なんですが、意図的に公的なふりをして行っているんです。何と言うか、ゴミを運んだり、両替したり、集合写真を撮るなんて、明らかに誰にでも経験のある日常生活の範疇です。ただ、それらを支えるシステムというものは、誰もが共有する理念的なものですから「公」と言えるじゃないでしょうか。
つまり、私的な行為の中で、本来は隠されている筈の公的なシステムが見えてしまって、混乱し驚くのではと。ぼくはそのように分析しているんです。
それを狙っている限りでは、その行為自体に日本人らしさはないんです。つまり、行為は目的の為の道具に過ぎないんです。それが問題だとは思わないですが、やや自分自身と作品の関係を考えることもありますね。なんで、丹羽良徳がモスクワで? なんで、丹羽良徳がイスタンブールで? 毎回聞かれるんです。
― もっと国内で仕事をしたい
市 また、海外に行かれるそうですね。2012年の予定は?
丹 近々では来月3月中旬から、モスクワ市近代美術館でグループ展に参加します。国際交流基金の企画で日本の1960-2000年代までの現代作家の紹介するプログラムです。その後は、ヨーロッパ内を巡回するそうです。国内でも数件、展示の話がありますが今年も海外が多くなりそうです。
市 それだけ出かけてばかりだと食べるための仕事もなかなか腰を据えてできないでしょう。
丹 ようやく去年の7月頃からフリーランスでやっていけるようになりました。つまり、アルバイトを辞めて、美術活動一本で生きて行けるようになったという意味です。生活を極限まで圧縮して月7-8万円でなんとか暮らせるようにして。あと、ヴィデオ作品がまだまだ少しですが、売れたりと収入も去年と比べれば増えました。
市 もっと国内の美術館、ギャラリーでの仕事が増えてくるといいですね。
丹 いや、本当にそうなんです。もっと国内の仕事を増やしたいとは思っているんですが…。なぜか、いつも国外ばかりで。それはそれで面白いのでいいんですが。せっかく東京にいるので、日本でもとは思っているので、今年は国内での制作にも取り組みます。
市 国境、国籍をいったんトランスしてしまった後でも残る「丹羽らしさ」がどのように出せるのか。そして日本人であることをどのように引き受けて作品を制作するのか。大きく言って、この2点を今後の課題に制作に励んでいただきたいですね。本日はありがとうございました。
丹 こちらこそ、ありがとうございました。
−[イベントに間に合わなかった質疑応答]ー
観客N(*) 作品には無意味といっていい行為がいろいろと試みられていて、それを真剣に行いながらなおかつ何かに到達することがない、というところで脱力系の笑いを誘う、というところが気に入ってます。重要なポイントだとさえ思ってます。無意味さ、と脱力した笑いです。
有用性と経済合理性に基づく社会の構造建築にまったく沿わない、あるいはそれに従い行為をなぞりながら裏返していくことで、無力さをむき出しにする。これを社会学的に分析していくアプローチとは別に、人生の無意味さと滑稽さに耐えることの実存的な試練というか実験というようにも見て取れたのです。
で、丹羽さんにとって、意味あること(有用性、使用価値とか)と無意味(生産性のなさ、結果をともなわないこと)さをどんなふうに考えていますか?またそのとき、笑い、はどのような位置づけで考えていますか?
丹 そもそも、あらゆる万物が無意味じゃないかという考えからスタートしています。人生だろうと、貨幣だろうと、恋愛であろうと、それぞれは川が流れることと何ら変わらない単なる自然の出来事なんだろうと思うことがあって、その後で社会が意味や価値や有益性とか生産性などという概念を創造したと。なので、一端、その作られた概念から抜け出すために、通常はあり得ないところを接続してみたり、ありえない場所まで移動させたりすることで、ぼくたちが作り上げたシステムや概念を剥き出しにしようと思っていることがあります。その為に、無駄なことばかり繰り返さないといけないことがあるかと。
また、笑いが起こることはもちろん想定できます。ただし作家としては、笑いよりもやや恐怖に近い感覚を作りたいと思っているんです。ホラーなどの恐怖とは違いますが、見慣れたものが一瞬にして全く違うものに見える怖さというか。それは笑える対象というよりも、ドキドキしたり怖かったするんじゃないかと。
(*)観客として参加もしたナディッフ・ディレクター |