NADiff Gallery 丹羽良徳「解釈による犯行声明」アーティスト・トーク 「犯行声明、あるいは歴史と天麩羅のひみつ ─ 東京-ロンドン-京都-東京」2015年10月24日[土] 15:00−17:00 |
― 「言葉」はもう無視できないものだった
アツミ 先に自己紹介で1周しましょう。名前長いので、後藤さんが説明してください。 ― 表紙のない「天麩羅」のデザイン丹 羽 まあ、そんなぐらいで。次行きましょう。 アツミ そうですね。岡崎さんには、デザインされるときにどう考えていたのかっていうことも含めて、お話しいただけますか。大丈夫ですか? 岡崎由佳(『過去に公開した日記を現在の注釈とする:天麩羅』ブックデザイナー/以下、岡崎) 大丈夫です。えーと私、普段は制作会社に勤めているんですけど、「本を作るのでデザインやってくれないか」って後藤さんから連絡いただいたときには、ちょうど会社の関係で、海外の別の会社で半年間仕事するっていうことをしているときで。そのときに、丹羽さんの本を作るんだっていうことを伺って。私は学生時代から丹羽さんの作品を知ってたんですが。 丹 羽 あ、そうなんですか(笑)。 岡 崎 今日会うのが一応初めてで(笑)。 丹 羽 デンマークにいたんだっけ? 岡 崎 そうそう、デンマークです。コペンハーゲンにいて。 丹 羽 素晴らしい。 岡 崎 フィンランドにも行きましたよ。 丹 羽 あ、ヘルシンキ? 岡 崎 そうです。丹羽さんも(「天麩羅」の中で)行っていた…… 丹 羽 あ、そう。大好き。カッペリ(Kappeli)? ケーブルファクトリー? 岡 崎 あ、島の方ですね。 丹 羽 ああ、スオメンリンナ? あそこに泊まってたの? 岡 崎 いや、そこは普通にあの、行って。「丹羽さんもその辺にいたな」って。 丹 羽 うん、2か月ぐらい滞在して、僕そこで銀行強盗してくれっていうプロジェクト(「泥棒と文通する」)やってた。まあそれはいいとして(笑)。 岡 崎 まあ、ちょっと距離が離れたところで本を作るのが始まって、丹羽さんとも直接お会いしたことがなかったので、後藤さんを頼りに、丹羽さんと後藤さんが何をしたいのかっていうことを、後藤さんに聞きながら作ってたんですけど。 最初にまず、この本に表紙がついてるイメージがまったく沸かなくて。新しく注釈を入れるっていうことで、ちょっと普通の本というよりは、作品というか、中でパフォーマンスをしているようなイメージがあったので。あと、「この本に表紙がつかない方がいいような気がする」っていう漠然とした気持ちが一緒にあって。じゃあ、どうやってまとめればいいのかっていうのを、後藤さんとちょっと話しながら、後藤さんがまあそれを丹羽さんにも伝えて……みたいな。なんかそういうリレーみたいな形で進めて。 丹 羽 でもあんまりこう、(デザインに関して)話し合いはしなかったね。案が出てきて「はいOK」って5分後にメール返して、それで3日ぐらいで終わったっていう。 岡 崎 (入稿までの)時間が最後、ギュッ、てなってた(笑)。 丹 羽 でも僕、「表紙がない」っていうのがすごい良いと思った。表紙がないんだったら最後、奥付とかも全部ナシにしようとかも思ったけど、まあ最終的にはプラスチックケースがついて、表紙っぽいのができちゃったけど。表紙から本文が始まるっていうのは、なんかすごくいいなって、それはすごい思った。 岡 崎 最後ね、奥付もない感じで進めてたんだけど、やっぱり入れるべきだっていう後藤さんからの編集の意向もあって、それで最後入れたんだったような。 後 藤 今みなさんのお手元にある赤い(展示「解釈による犯行声明」の)パンフレットに載っている書影画像って、実際の最終的な書影画像とはまた違っていて(笑)。ずっと絶え間なく、入稿直前までどういう最終形態になるかはわからない状態で、ずっと更新して更新して……っていうことをやっていたので、そのパンフレットの入稿日の時点ではこうで、最終的な本はこうなりました、という。 アツミ 時間があればもっと変わっていたかもしれないっていう。 後 藤 かもしれないです。 アツミ ちなみにこの「歴史本」の表紙もですね、本来は外に出て来るべき紙ではないというか…… 丹 羽 ハードカバーの中に入る、芯の……何て言うの。 岡 崎 ボール紙? 丹 羽 ボール紙。うん。本当は芯になってるやつを表紙にするっていう。 それは僕らが「歴史本」のデザインを頼んだネダ(・フィルフォヴァ)さんのアイデアで。ネダさんはマケドニア出身のデザイナーで、今は東京に住んでて。旧ユーゴスラビアだよね、マケドニアって。この共産主義シリーズにぴったりだと思って、本のデザインを頼んだ。今日はちょっと、彼女は名古屋の大学でデザインを教えてるんで来れないんですけど。ボール紙を表紙にするっていう。 アツミ 何でも剥き出しで疾走感があるっていうのが、作品からも…… 丹 羽 いや、別に剥き出しをいつも考えているわけじゃないけど、結果的にそういう風になったっていう(笑)。 アツミ (笑)。 ― コミュニズムへの軽さ |
アツミ で、まあ、このルーマニアの作品(「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」)が2010年にできて。それで、佐々木さん、お待たせしました。佐々木さんにお伺いしたいと思っていることが。ぼくはもともと批評とか現代哲学とかをよく読んでいて、その流れで現代アートっていうものにアプローチしていて。 そもそも、ここまでお待たせしました(笑)。で、佐々木さんご自身は丹羽さんのことをこれまでご存知なかったし、そして今回初めて作品をご覧になったという感じなんですけれど、まずはコメントをいただけますか。 佐々木敦(以下、佐々木) はい。……気になってしょうがないんですけど、声、聞こえてます? あ、全然聞こえてるんですね。なんかこっちにいて喋ってると、下の階(展示会場)の映像の音が混じってて、聞こえてるのかな? 聞こえてない割にはみんな静かだな、って思っていたんですけど(笑)。 ええと、佐々木です。Twitterにもちょっと書いたんですけど、そして今アツミさんからも「丹羽さんのことは全然知らなかった」ってご紹介いただいたんですけど。いや、実際知らなかったんですが。ご存知の方もいるかと思いますが、丹羽さんのことを知らないだけじゃなくて、僕は美術を専門とした書き手じゃ全然なくてですね。美術についてもときどき関心のあるものに関しては喋ったり書いたりしますけど、その程度なんですよね。 で、たまたまなんですけど、オペラシティ アートギャラリーに鈴木理策さんの展示を観に行った帰りにギャラリーショップに寄ったら、先ほどご紹介があった通称「歴史本」と通称「天麩羅」の2冊の本があって。全然知らないんだけど、2冊同時に同じアーティストの本が出てて、で、ちゃんと中身が見れないようになってるんですけど、それだけに余計に気になったところがあって(笑)、2冊とも買ったんですよね。 書物や印刷物からそのアーティストのことを知るっていうことが僕は結構多かったりするんで、この本を買って、中を開けると、特に「天麩羅本」の方はめちゃくちゃ文字が詰まってるんですよ。で、「これ全部読むの無理」ってなって、最初は読んでたんですけど、そのままちょっと積んどく状態になりつつあったんですね(笑)。そしたら2日後ぐらいにNADiffの方から急にメールが来て、このトークに出てくれないかって言われて。「こんな偶然があるんだなあ」っていうことと、「なんで俺が呼ばれたんだろうか」っていう気持ちがあるまま今に至っていて(笑)。ただ、(後藤さんと岡崎さんは)基礎デ(基礎デザイン学科)出身っていうことで、僕も武蔵美で10年ぐらい教えていたので、授業取ったこともあるんじゃないかっていう。 後 藤 私は大学当時、佐々木さんの授業を何回もローテーションしていて(笑)。 佐々木 あ、なるほど。なのでね、余計にここで真面目そうに喋ってても、どれだけ適当な授業をやってたかっていうのがバレてるってことですごい話しにくいんですが(笑)。で、「お待たせしました」って言われましたけど、一通り経緯などを伺ったので、この後逆に話しやすくなったというか、いろいろ思いついたことがありました。 やっぱり、丹羽さんの本を見てても、この人きっとすごい面白いだろう、知れば知るほど面白いだろう、っていう気持ちがありましたし、今ここに来て、下の階で作品が3本流れてるんですけど、それを拝見してもすごく面白い……面白いっていうか興味深くて、いろんなことを聞いてみたい、話してみたいと思ったので、この後時間が許す限りですけども、話せたらなって思ってます。 ― 映像演劇学科という場所 |
佐々木 それで、丹羽さんは多摩美の映像演劇(学科)出身なんですよね? 今はその学科はなくなっちゃったんですよね。 丹 羽 6000円ぐらいする本で、ドイツ語とかフィンランド語とかエスペラント語とか…… 佐々木 本当に23カ国語? 23カ国語で書いてあるだけだったら俺買う意味あるのかなって思って買わなかったんだけど(笑)。 丹 羽 本当に情報量としては、すっごい少ないですよ。だから、20……。すごい少ない情報が23倍になっているだけで。つまり、本当に普通に作れば20ページくらいの本を700ページにしちゃってる。そのちょっと嫌がらせというか。読み手としては、1種類くらいしかいらないんですよ…...。 佐々木 まずね、それ全部読める人いないですよね? 丹 羽 いないですね。 佐々木 ま、いるかもしれないけど、極めて稀ですよね。 丹 羽 23ヵ国語を読む必要もない、同じことを書いてある連続なんで。そういうことをやって。詩から始まったかもしれないけど、言葉がどういう機能を持っていて、どういう価値があって、それがどう受容されていくかということに、たぶんここ数年は気が回ってたんじゃないかなと思う。というのがここ最近の流れと一番最初の原点が結ばれるところ |
― 記録用映像から展示のための映像へ佐々木 あの、もう1点だけ聞いておきたいなと思ったのは、ビデオで作品、やったことを記録して、たとえば今日のこれも、実際に展示されてるのはビデオなわけですよね。で、ビデオを作品という形にするようになったのは途中からということですか? 最初はパフォーマンスだけだったんですか? 丹 羽 それをやってる。それまさにやっているだけの状況。当時記録ビデオとしてあったんですね。それを最終的に展示するということも考えてなくて、記録としてだけ残ってて、良かったとか、よくわからないことを考えて残していたんですけど、それが2008年、2009年、2010年、αMでの展示の前後くらいまで続いてるんです。 で、誰にも見せないような……ま、たまに見せることはあったかもしれない、でもほとんど見せない状況が続いていて、それで本当にこれでこの先アーティストとしてヤバいんじゃないかと、いろいろ頭の片隅にあったと思うんですけど、そのときたまたまαMの話があって、ホワイトキューブっていうギャラリーで展示するってことをやってください言われたときに…… 佐々木 へえ、それがきっかけだったんですか? 丹 羽 それがきっかけで、ビデオを編集するようになって。 佐々木 本当に最近というか。 丹 羽 本当に最近なんですよ。まだ5年というか。 佐々木 5年間誰も見てなくて、5年間記録してきたみたいな。 丹 羽 そうなんです。 佐々木 あ、そう。 丹 羽 だから2010年までは編集してなかったんですよ。だから、未だにiMovieしか使ってないんですよ。編集するということに、まだ全然……特に2010年ごろまでなんていうのは、本当にもう考えられない状況で、テープで撮った最初から最後までをぶつ切りにして、はい終わり、みたいなことしかできなかった。わからない。 もちろん、大学在学中は映画という違う形で、課題としてみんなで作ることがあったので、フィルムですけど、8mmフィルムとかをみんなでちょっと撮影して編集するってことはやってました。だから、その記憶を蘇らせながら、編集するってことはやってましたね。なかなか編集を意図的にやって、さらに作品化して展示するというところまでは、2010年前まではなかなか辿り着かなかった。というか考えてない状況だったんですね。 それが、展示として作品を1か月なり2か月なり時間を取ってやる、そしてさらにそれを日本にいろんな人が来て、海外の人に来て見てもらうという状況に落とし込めるということになったときに、やっと「編集する」ってことを覚えだした。 映像演劇学科というところに行っているんですけど、僕ももう、今はそうでもないですけど、酷い言い方をすると、大学に入ったころは演劇を憎んでいて。「演劇なんかあるからダメなんだ」とずっと思ってた。ものすごい、こう、劇場でやる演劇に対して憎悪していて、なぜか「こんなことやってるからダメなんだ」とか若気の至りのようなことを、腹立たしく考えてましたね。だから、「僕は誰にも見られなくてもいい」だとか言って一人でビデオで撮影していて、勝手なことをやってる。ま、そこから始まってる。だから、演劇に対してはいろんな考えてることはあるんだけど、そこに対する憎悪とか反撃を喰らわせてやろうとか、ずっと考えてた。それができたかどうかわからないですけど、最初はそういうことを考えながら、みんな演劇というと役者がいて、劇作家がいて、とかという集団制作をするということに対して、もう僕とビデオカメラだけ。で、航空券1枚、ベルリン行ってやってるぜとか、よくわからないことを言って出かけて行っちゃうとかを繰り返してた。それが、まあ、大学生だったころの原点。今も続いていると思うんですけど。 |
(次頁 3/4P へつづく:>> 遠いところに行く口実がどうしてもいつも欲しい) |
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