NADiff Gallery 丹羽良徳「解釈による犯行声明」アーティスト・トーク 「犯行声明、あるいは歴史と天麩羅のひみつ ─ 東京-ロンドン-京都-東京」2015年10月24日[土] 15:00−17:00 |
― 「ディテールを見る」ことの中にあるものアツミ うん、あの。その話をね、ちょっとこっちに引き付け、戻すとですね。さっき、そのテープレコーダーを使うの「アナクロなんだけど」という話をしていたんですが、今、アナクロニズムっていうことが、「アナクロだね」って言って、それが批判にならない……。つまり……。
丹羽さんのお話とかを聞いていて、その日記本っていうのは、編集者の後藤さんはスーザン・ソンタグの『私は生まれなおしている』を意識して作ったと言っていますが、やっぱりこのある種のメタフィクションやパラフィクション、あるいはフィクションの違ったかたちとして読めるのではないかと思うのですが、そのあたりはいかがでしょうか。 佐々木 あの、実際、その本が2冊同時に出たっていうことですね。それは、やっぱり、こう片方の「歴史本」が近年の作品の、まあカタログに近いかたちで、それで批評も載っていると。で、ちょうどそれを制作しているのと同じくらいの時期の日記っていうのが、「天麩羅本」になっているわけですね。だから、そういう意味では「A面とB面」と言っていたけれども、ある意味ではその対応関係が、裏表というものがあるわけじゃないですか。 さっき、本田さんとのやりとりのところで、「天麩羅」の注釈の話がありましたけれど。この「過去に書いた日記に、あらためて注釈をつけたんですよ」ということは、ビデオの作品に言い換えると、結局今、下でやっているビデオの作品の前で、丹羽さんが「ああこのときは」とか言ってて喋っているのとほぼ同じことになると思うんですよ。 で、その、僕は今、トークが始まる前に下で作品を見て、すごい面白いと思ったのは……あの何て言うのかな、たとえば「命名権を販売する」ってやっているじゃないですか(「ゴミの山の命名権を販売する」)。で、命名権を販売するのは、最初見ていたんだけど、何が面白いのかっていうと、まず、命名権、ゴミの山の命名権販売しているっていうことの面白さはもちろんあるに決まっているわけだけれど、それはタイトルで出ているし。ある意味で、「出オチ」ですよね。でも、それが面白く見えちゃうのは、それを実際に行って、いろいろと交渉しているじゃないですか。その交渉をしている人たちが、なんかちょっと大まじめにやっている人もいれば、「大まじめにやっている」っていう「やっている」っていうていでやっている人もいれば、「何これ」っていう調子でやっている人もいれば……それがね、見ている側が完全に腑分けできるかたちじゃないですけれど、表情があるじゃないですか。表情っていっても外国の人だからそれはわからないんだけれど、それで途中見ていると、「この人半笑いだ」とか。そういう、つまり何が言いたいかというと、あのすごく微細なディテールを見ることになるわけですよ。で、つまり「ディテールを見る」っていうことの中に、こう面白味があると。 それが多分、台湾での「自分が死んだら台湾ていう国も終わります」っていう作品(「台湾の路上で偶然出会った人に、死んだら台湾が消滅すると宣言してもらう」)も、これも同じことしか言っていないわけだから。別にその、「ですよね」っていう。つまり、それで終っちゃうんだけど、でも見ると、やっぱりみんな半笑いで言っている人とか、「これで、こうやって、言えばいいっていうことですよね」とか、「ただ無理やり言っているなこの人」とか、いろいろ言っている人がいて、それで見れちゃう。 つまり、その、ぼくは丹羽さんの作品の話を聞いていて思うのは、ある意味ではいわゆるその、パフォーマンスだし、あの一種のこうコンセプチュアルアートのね、その流れの中にあるものっていう風に当然思われるんだけど、コンセプチュアルアート的なもの、つまりパフォーマティブな意味での、つまりパフォーマンスを介したそのコンセプチュアルアートって、ある意味ではすごくなんかあのまずい部分っていうのがあって。まずいっていうか、困った部分っていうのが常にあると思うんですよね。っていうのは、1個はやっぱり、「これは出オチだ」と思われちゃうと。つまり、コンセプトとか、たとえば指示書みたいなものがあるような作品は。指示書を読むっていうことと、指示書を遂行するっていうことってどう違うっていうのかと。「指示書を読むだけで別にいいんじゃね」っていう、そういう風に思われてしまうということが一方にあると。 それともう一方で、最初のほうでその本田さんが、ゴールドスミスでそのレクチャーをしたときの質問の話がやっぱりすごく面白かったのは、「それって何の意味があるんですか」っていうことをやることによって、いったいあなたは何を訴えようとしているんですかっていうことを問われるっていうことがあって。で、その問われたときに、あらためて、「俺が衝動に駆られてやったっていうことは、一体どのようなテーマなり、主張なりがあったんだろう」って問うことになってしまうので、うまいこと言うっていうことが、いいことであるのかどうかっていうことはありますよね。 つまり、その……コンセプトがすごくはっきりしていて、すること、やることが作品になっているようなものって、コンセプトだけを聞くっていう入り口だけの部分と、そのコンセプトをやった結果が、いや、やったということについてのいかなる意味があるのかっていうことを問うっていう出口の部分ばっかりが強調されやすい。でも、結局、本当に面白いのはその間の部分だと思うんですよ。つまり、その間のディテールの部分っていうのを見るっていうことが、面白いっていうことがあって。で、その面白さっていうのがつまり……そうじゃなかったら「思いついた」だけでいいわけですよ。わざわざそこに行って、なんかすごい時間かけて、やんなくてもいいけど、それをやって、記録に残してて、で、記録は記録だから、記録を作品と呼んでいいのかっていうのもあるんだけれど、それを作品と呼び得るとしたら、見る側は、僕らのほうが、その中に、ある意味ではアーティストの意図とは違う、違うというか、意図を超えた部分で、アーティストが、丹羽さんがそれをやったことによって、現実に引き起こされた出来事の中のディテールの面白い部分っていうのを見るっていうことだと思うんですよ。「見ることが可能だ」っていうことだと思う。で、それが多分、丹羽さんみたいな人がアーティストというように呼ばれ得る、そしてここでこういうことをやっているっていうことの1つの理由で。 ― 「言葉」を使って思考していなくて も、丹羽良徳はそれをしている佐々木 で、それが何で面白いかっていうことのもう1つの理由は、さっきそのあの、僕が喋ったことを受けて、本田さんが「ブリコラージュ的なこと」っておっしゃって、丹羽さんが「ブリコラージュって何ですか」って言って、オチがつくっていう感じがあって。つまりそれは何が起きたかって言うと、ある種の文脈化が可能になるってことなんですね。つまり、丹羽さんが、ある意味では、すごく、ある意味で無意識に野生の本能で、面白いと思うこととか、自分にとって意味があると思うことをやると。で、それをやってやったことがある記録になっていくと。そうすると、その記録っていうことが何を意味しているかっていうことを文脈化したり、その丹羽さん自身がそういったこうあの、たとえばアートにおけるタームみたいなことでは信用していないっていうことは、アートにおけるタームに置き換えて、あの考えることができる。それは、あの丹羽さん自身がその言葉を使って思考していなくても、丹羽さんはそれをしているわけですよね。だから、そこのところで、そのアートの文脈みたいなものに接続するっていう面白さがあって……。だから何だろうな、さっきの話の中で、今、アーティストってどんどんこう、ある種コンセプトとか、テーマとかっていうのが、すごく重要になってきているし、それをどのように説明しうるのかっていうことが重要になっているんだけれども、丹羽さんはそう意味ではものすごく変わっていて、そういうような部分っていうのはものすごくこう、本能的にやっているんだけれど、出来上がったものは、そういったかたちで、非常に多様に文脈化可能っていうのが、多分面白いっていうことになるのかな。 つまり、言ってしまえば、僕は本当はアートの知識、全然ないんですけど、あの、田中功起さんみたいなタイプの人の対極にいながら、ある意味では釣り合いが取れるような存在みたいな。田中さんはやっぱり、もう完全に自分で自分の批評ができる人だし、ある意味では彼は自分の作品について語る言葉と彼自身の作品のあり方っていうのが、もう一致しているっていうか、連動しているじゃないですか。そこがやっぱりなんかね、すごく興味深いなっていう風に思いましたね。 アツミ 日本のアート史ということでいくと、ある種、村上隆さんが「スーパーフラット」と言って、松井みどりさんが「マイクロポップ」みたいな話をしてきたときに、なんか田中功起さんっていうのはその「マイクロポップ」の、いちばん何かその先端にある泡の部分だけをすごくこう精緻に作っていく。まあそういう意味で、何かマイクロポップのマニエリスムみたいなところにある。その一方で…… 佐々木 で、実際に出ていましたけれどね。 アツミ 出てましたね。うん。その一方で、何と言うか、丹羽さんっていうのは、さっき本田さんがおっしゃっていたように、そしてやっぱり佐々木さんもおっしゃっていたように、日常の中の交渉に見られるリアル・ポリティクスを、すごくこう抉り出してくるところがあって、そこをもうマイクロポップと言わず、「マイクロ・ポリティクス」といえるのではないかと思ったりするんです。ね、「マイクロ・ポリティクス」です。 丹 羽 うん、いや、言っていることがあんまわからない。 アツミ え、なんで、そう?「マイクロ・ポリティクス」、ね。そう。 丹 羽 みんなの言ってること、5パーセントくらいわかるんだけれども。 佐々木 これがね、文脈化っていうこと。 丹 羽 わからない部分があるんだけど。 アツミ そう、そう、そうなんです。この本(を作っているとき)はいつも、ぼくはいつもセオリーの言葉っていうか、コンセプトを使って話をするのに、丹羽さんはいつもよくわからない、何を言っているかわからないっていう。 丹 羽 あの、難しい単語とか使うとわからなくなるから。難しいから、また使われるとわからないという。 佐々木 すごい関係性で本を作るんだ。 アツミ そうなんですよ、ずっと戦いながら作ってて。本当に血まみれの本です。 丹 羽 ごく簡単な言葉しかわからないね。でも、感覚で捉えたものしか、僕、信用していないから。あまりこう、あ、何とか何とか、何、何か、何だっけ、何だっけ。わかんない、ポリティクスとか、でも何かそのアナ、アナ、アナログニズムとか言われるとわからないけど、自分の体験として消化されないものを僕は言えないと思っているから、それに対しては使っていないだけなんだけども。 ― 「出オチ」から始めたい丹 羽 でもさっき言ってた僕、佐々木さんが「出オチですよね」っていうのはすごい面白いって思ってて。いや、面白いって思っているっていうか。僕もそう思っていて。むしろ出オチしたい、って思ってて。出オチしたところから始めたい。で、出オチしない限りは、もう僕、作品にできないって思ってて。「出オチして、で、何?」みたいなところから、もう一歩進んでいく。で、そのために作品を作っているっていうものがあって。 佐々木 おお、いいですね。 丹 羽 最初から、出オチして、結論もわかっている、説明できる限界のところまで最初から説明しておいて、そこから更に、より、こう混沌の生活っていうか、現実のところに入っていくところがあるから、僕は自分で自分が出てくるあのビデオを作ってるし、いろんな人とこう戦うっていうか、面と向かって話をしているっていうところを全部ずーっとカメラで撮っているっていう。 で、あの、マニラのゴミのやつも、あれ3か月くらい、ずーっと毎日、ずーっとカメラで何百時間って撮ってて、それから切り取っている。本当に、カメラで「うん?」ってやられるとこまでずーっと待ってて、バッテリーなくなるところまで、ずっと待っているっていうところが背景にあって。 本当に、僕ビデオもそうだけれど、その説明っていうか、言葉でもそう。「説明」っていう単語に非常に興味があって、「最終的にどこまで説明したら説明になるのか」っていうのが、ぼくの10代から考え、1つの世界の七不思議なんじゃないかと思っていて、何をどこまで言ったら説明が説明として、人と人に受け入れられるのか。たとえばさっき言った、えっと何だ、アナクロニズム、っていうところでわかれば、それが説明かもしれない。でも、それが何って言われたら、それはその先を説明しなければならないですよね。で、それを何って言うと、またもう1個戻るわけじゃないですか。で、どこまで戻ったら、説明が説明と言えるんですかっていうところに、僕は非常に、一番興味がある。それでこういうことをやっているんじゃないかなっていうところがあって。で、「ゴミの山の命名権を販売する」って言うときに、それは(言葉の意味としては)わかる。 じゃあ、それを現実にしたときにどうなるのか。その先がもっとあるんじゃないかと思っている。戻っているような感覚で、最初に、あの、もう、それ以上説明できないだろうと思われたところで始めるっていうところが、僕にはまあ、ある種の創作の原点として立ちはだかっている。それといつも戦っているような気はするんですね。だから、コンセプトを作るっていうようなところは、ぼくはあの、表面的にはしているように見せかけているけど、あんまりしていなくて。コンセプトを作るっていうよりは、コンセプトを、何だろう……何か解体、自分でしていくっていうところが一番実は興味があって。 だからさっき、本田さんが、ロンドンのアートスクールでどういう授業があるかというと、自分の作品をどういう風に語るかっていうところに(重心が)置かれているって言ってたけれど、自分が自分で説明できなくなるところに、自分でどうやって作れるかっていうところがやりたいなって思っているっていう風な感覚ですね。わかりました? アツミ うん、わかる。 本 田 ちょっとコメントしてもいいですか。ちょっと飛躍した意見かもしれませんが、あえて日本の美術史っていうか、そういった文脈に丹羽さんの作品を繋げて考えるとするならば、個人的に思っているのは、(展示「解釈による犯行声明」のパンフレットの)この辺に書いてあるんですけど、あの、マルクスが眠るロンドンでどうだったのかということ。今ロンドンにいらしている歴史家の足立元さんから伺ったことなのですが、マルクスの墓があるすぐ近くに、実はマルクスだけじゃなくて、フェノロサの墓もあるんですね。あの、アーネスト・フェノロサ。あの岡倉天心とすごく親しく、日本の藝大の元となったと言われる東京美術学校の設立に関わった人ですよね。それであの、岡倉天心があの、その芸大の前身ともなる東京美術学校の設立に関わったときに書いた、『茶の本』というのがあるんですが。その中で、黒田雷児さんと別の対話をしているときに指摘されたことなんですけど、アート、『茶の本』の本って、もともと英語で原稿を書いていたじゃないですか。それの中で「Art」っていう言葉が出てくるんですが、「Art of life」であって、「Art」とはその、何て言うんでしょう、お茶を飲むようなすごく日常的なことこそが「Art」であるっていうことを言っているんですけれども。それが日本語に翻訳されたときに、アートっていう、大きいAで書いたアートは「美術」という風には訳されていなくて、あの、「すべ」、生きる術、という「術」の部分だけなんですね。 その、何と言うんでしょう、じゃあ、その「術」っていう漢字というか言葉で、美術がもともと作られる、元となった人が、考えていた「術」っていうのには何が含まれていたのかっていうのを考えてみたんです。その漢字には4つ意味があって。1つは何て言うんでしょう、いわゆる美術的なその「技」っていうもので、2つは「まじない」なんですね。まじないって、呪いというか、そういう言葉にも繋がりますけど。もう1つは「手立て」。すべ、メソッドです。それでもう1つ、最後の4つ目っていうのが、「はかりごと」、「たくらみ」。それをさらに英語に訳すと、「plot」、犯行計画とか物語の筋書き、っていうことになるんですけども、そういった文脈で考えた方が、丹羽さんの術(すべ)っていうか、アートっていうか、「企みとしてのアート」っていう方がしっくりくるんじゃないかって思います。すみません、長くなって。 ― キャラによって立つことへの距離感アツミ そういうところで言うと、丹羽さんの厄介さっていうのが、丹羽さんはいろいろ活動しているけれども、日本のアート・クリティックという、評論家にきちんと論じられたことがあまりなくて。むしろ、丹羽さんがアート史を自分で作って、つまりぼくたち、後藤さんを含めて、出版をやっているある意味では制度側の人間ですが、そういうインディペンデントながらも制度側の人間を自分の中に巻き込んで、何かその、物語イコール歴史、つまりヒストリーを作っていくっていう。そこがですね、すごく、まあ、ハイデッガーではないけれど、現存在で自分を未来に投げながら、死にそうになりながら、生きていくっていう、そこがそうすごく、作品の面白さであり、与えてくれてるものがあるのかなって思うところがあるけれど、そのへんは後藤さん、どうですか。 後 藤 ん? アツミ (「天麩羅」の)一番最初、「年が明けたらといっていい気になるなよ」っていう、このすごくパンキッシュな一節から始まる。そういうところを見てみて、丹羽さんて、アートをやりながらも、その背後には、いろんなことを思って、つまり、コレクターとのやりとりをどうこうやったり、女の子との恋愛をどうこうやったりっていう、そういうすごい、人と人とのネゴシエーションというところがすごい出ている本だと思うんですけれど、その辺についてちょっとお話いただければと。 丹 羽 ややこしいね。 後 藤 難しいですね。 アツミ 一気に振っちゃったけど。 後 藤 でも、そうですね……もちろん、この本の中には、丹羽さんの作品のステートメント的な部分であったり、制作日誌的な側面もあるにはあるんですけど、私はそれだけを載せるんだったら、そんなに面白くないなと思っていて。何て言うんでしょうね。何か本当に瑣末なことも含めて、丹羽さんてものすごく同列に語って日記に書いているなっていうところは、当時からずっと思っていて。たとえばその、助成金の申請のために、郵便局の窓口に行って、それで窓口のおばちゃんとのその宛先の印刷した紙を逆さに貼られちゃったから、直してもらったとか…… 丹 羽 切手が逆に貼られているっていうやつね。どうでもいいところ。 後 藤 そういうやりとりだったり。つまり、そういうどうでもいいところに私は結構、本を作りながら、目が行っちゃって。「また女の子ナンパして振られているな」とか、何かそういうところとか。何て言うんでしょう……でも、そういう風に、実際、本っていうかたちでそれも含めて出版してしまうっていうのは、全部、同列に……たとえばなんか、今後丹羽さんの評論を書くっていう人がそこを引用してしまう可能性があるとか、そういう台に上がってしまうんだなっていうところも含めて、何か、私はちょっと面白いっていうか、不思議だなと思っていて。なんかあんまり結論はないんですけれど。 アツミ こういうところを見ると、自分の生きている人生と歴史が平衡しているっていうのがこの2つの本の構造であり、さっき本田さんが言っていたように、今ある種の個人と個人の交渉っていうものを歴史化していくっていうことを、それをplot、犯行であるとするのであれば、それがこの「解釈による犯行声明」という美術展につながると考えられますね。今、この3つの関係性を読んだときに、何か変な構造だと思うんですけれど、それをどう言ったらいいのかなっていう。 佐々木 うーん、あの、さっきちらっと(アツミさんが)「限界芸術論」っていう風に言ったら、多分何かあって出てきたんですけれど……で、その「限界芸術論」って言って、パッて(アツミさんの方向を)見たら、ここ(本棚)に『限界芸術論』(鶴見俊輔)があるんですよ。それで、あの、さっき岡倉天心の話してたら、その隣に岡倉天心の『日本美術史』があって、そんなことってあるんだって(笑)。右を見るたびに、その話題になっている本がささっていて、「これ何、もしかしてこれ仕掛けなの、もしかして俺以外に全員、セリフをしゃべっているの?」っていう気持ちにちょっとなりかねないような、感じがあったんです。 僕は今、後藤さんが話していたようなことで思ったのは、その前からの話も含めて、ある意味で丹羽さんは自分が行動しているっていうことを作品にしているから、実際に自分でいろんな国に行ったりして、言葉も通じない人と交渉しているから、突撃していって、その突撃していった人との記録っていうふうになっているんですね。 なんだけど、すごく微妙っていうか。すごくそこが面白いと思うのは、そういうね、つまり、アーティストがアーティスト自身を、ある意味では「主人公」にして、物語を紡ぐっていうことによって、そのアーティストが、キャラが立っていらっしゃって、それでこう、グッといきますっていうのは、当然あるっていうわけですよね。で、実際、(丹羽さんは)キャラも立っているって思うんだけれど。なんかそういう、アーティストが自分自身を、つまりある種のあの何て言うのかな……自画像っていうものをとにかく拡張していくようなかたちで、作品としてというか、アーティストとしてサバイブするっていうことと、意図しているとか意図していないとか別にして、結果的にそういうかたちでそうなる人、つまり、その人の作品と、その人の人間性というかキャラクターっていうのがまったくこう、分かつことができないようなタイプでブレイクしていくようなタイプの人っていうのはいっぱいいるわけですよね。 で、それと丹羽さんはちょっと違うと思うんですよ。丹羽さんはキャラは立っているんだけれど、丹羽さんの作品は丹羽さんのキャラによって立っているような感じはまったくしない。むしろ丹羽さんは結構、カメラに映っているんだけれど、そのグイグイいっているっていうよりも、何かあの丁寧に……丁寧にって言うのも変だけど、とにかく何て言うのかな、キャラをもっと出せるんだったら、出せると思うんだけれど。むしろ(見る)人が、その作品の背後にいる丹羽さんっていう人自身に惚れるみたいなかたちになるっていうこともありうると思うんですよ。 でも、僕はやっぱりそれはあまり面白くないと思うんですよ。そうじゃないかたちでやっているっていうことに意味があって、だからそれが逆にその、あの……後藤さんが言ってた、日記の「何でもない部分が全部入っている」っていうことにも意味があって、何にも入っていないものが入っているんならば、もっとキャラ押しみたいな雰囲気になってもいいのに、でも全体的には、すごくアノニマスな感じに表紙とか作っているし、あの、こう表紙にいきなり丹羽さんのどアップがぽーんとかあるっていうかたちになっていないわけじゃないですか。そこが、何て言うのかな、こう……性格的なことも含めての押しが強いようで、押さないっていうか、押しきれないっていうか。何て言うのかな、含羞があるっていうか、そいういう感じを受けましたけどね。 ― 「天の目線」から自分を見たい欲望がちょっとあってアツミ あと一つ、さっきの本田さんの「術」っていうところでいうと、すごく怖いくらいに引いた視点を感じて、何か機械的な……。ある種もう、このプロットでいくんだったら、もうそこをずっと突きつめて、そこから立ち上がってくる現実をとにかく拾おうと。で、それが物語、つまり作品になったり、それをこういう風に文字なり書物にしたときに歴史になり、それがしかし、もう言い逃れのできないような必然性、説得性を持っているっていうところが、丹羽さんのもっている作品のきわめて強度のあるところ。つまり、歴史というものが本当に必然的に、つまり理性の狡知っていうけれども、現実を振り返ったときに、もう「こうならざるを得ない」っていう、十全な説得性を持って迫ってくる、そこがすごい、あんまり評価してもアレだけど、っていうところがあるのかなと思います。そういうことを意識されているんでしょうか。 丹 羽 いや、言っていることがあんまりわからないんだけれど、難しすぎて(笑)。ふふふ。何とかのこう、何、何…… アツミ 理性の狡知? 丹 羽 「りせいのこうち」、うーん、漢字もわからないんで、わからないんですけど。でもまあ、あの、自分を自分の素材として作品を作っている部分はあって。僕、ルーマニアとかそのモスクワとか、台湾でもいいんだけれど、どっか行くときに、ずーっと考えていることは、「丹羽良徳っていう人が、今台湾にいるぞ」っていう、なんかよくわかんないことをずっと考えてて、ぼくは何か、「天の目線」から、今あの人は飛行機に乗って、他人事のように、今行って、レーニン探してるぜ、みたいなことを、自分自身が自分で決めて、自分を―誰にも頼まれずにやってんだけども、もうすごい冷めた目線で、他人がやってるかのごとく見続ける、っていうのを見たいっていう欲望がちょっとあって、それが共存しながらやってる。だからそれは止められないんだけれど、そう、だから自分の意思じゃないところが働いていながら、自分で自分を混ぜてやっているっていうところがあって、だからすごい冷めた目線でやっているだろうし、自分が自分をぼんと押さない部分が、と言うか、ずっと引いて見たいの。 だから、これ自分が「天麩羅」の本でもそうですけれど、「自分自身に何を言えるか」っていうこともちょっと試しているっていうか、自分自身が自分に言えないっていうところもやっぱりあるような気がするっていうか、そういう引いたところの立場から、そのやっているような気がする。一歩、半歩下がっているくらいのとこで、モノを作ったり発言したり、何か出したりしようとしている感覚ですね。作り手としては。わかります? アツミ すごく、メタフィクションっていうのがぴったりっていう視点の気がするけれども。 丹 羽 ええ。うーん。 アツミ そこに交渉が出てきて、メタが崩される、パラにズレていくっていうところが、佐々木さんの「パラフィクション」っていうところに繋がるのかな、みたいに思ったんですけどね。特に、今、スペキュラティブ・リアリズムとかっていって、人間の自分の思考とは別に、宇宙が勝手に計算して、その中で現実がつぎつぎと進んでいくっていう、情報が過剰になって出てきた、Googleに象徴されるような社会の中で、われわれ人間の主体の位地っていうのがまったく消えていってしまう世界観がある。そういうある種の思想のムーブメントがある中で、むしろ丹羽さんはそういうムーブメントから、もう1回、人間性を恢復する、っていうとあまりにもナイーヴだけれども、人間、主体がまったくなくなった後での自由意志とは何なのかっていうテーマをもう1回、他者との衝突という事実性において、そこから身体的なある種の強度をもって、もう1回、生き直すことを可能にしてくれる。そういうことをすごく考えさせてくれるなって思うんですよね。 丹 羽 ややこしいね。アツミさんの言葉を聞いてると、わかるようなわからないような、だいたい10パーセントぐらいわかるような気がするんですが、9割方わかんないんですよね。 アツミ ややこしい。そう、まあ、そこがアレで。そろそろ時間? そうですよね。何かこう、ヒストリー(物語=歴史)の二重性が組み合わさっているっていうところで、面白いかなと思ったりするけれど。 丹 羽 どういう締め方なんだろ(笑)。 ― 「共産主義っていうものを実際のところどう思っているんですか?」問題アツミ そろそろ締めですが、特に佐々木さんとかにご質問とか。 佐々木 いやいや、僕に質問してもしょうがないんだけど、もう1つだけ聞かないといけないと思っていたんだけれど、最初から出てきていた、共産主義の話なんだけれどね。「共産主義シリーズ」ってやってるわけなんで、共産主義も結局、そのカセットのシリーズと同じと言えば同じですよね。アナクロニズム、アナクロニズム。「アナクロニズム」っていう言葉を今日覚えたね(笑)。 丹 羽 最近、「ヒップスター」っていう言葉も覚えたんだ。 佐々木 ヒップスター? ヒップスター。まあいいや。それで、そういう、つまり共産主義って、今でも共産主義の国はあるにはあるけれども、いわゆるイデオロギー対立的な意味での共産主義っていうのは終わったっていうか、それからもう20年くらいは余裕で経っている状態のところで、あえての「共産主義シリーズ」なわけじゃないですか。で、それをやるから、結局、政治的な意味での、「共産主義っていうものを実際のところどう思っているんですか?」問題が問われるっていうことになると思うんですよ。それはもう共産主義っていうものを作品に掲げた時点で、自明ですよね。だから答えるっていう意味で、答えているんでしょうけれど。共産主義っていうものを掲げて作品を作り続けるっていうことの意味っていうか、狙いっていうものっていうのが、どういうところにあって、それはこの後、もう一応完結したっていうことになっているのか、あの、その辺についてもちょっと最後に聞いときたいかと。 丹 羽 えーっと、これはいろんなところで喋っているんだけれど、僕は82年生まれで、で、ソビエトが崩壊した91年とか、89年でベルリンの壁崩壊とかっていうのに、僕は当時7歳とか8歳で、この世の中にいたんだけども、リアルタイムで、今の知能的な認識の上では、こう、感覚しないまま、過ぎ去ってしまって、後になって大学に行ったとか、東京来てから、情報だけを掬い上げるように知っている。たとえば、ウィキペディアで調べて、「ああ、そういうことなのか」って風に認識したっていうのが先にあって、そこからルーマニアに行ってるんですよね。本で読んで、あのベルリンの壁っていうのが、ここにあって、そういうことでしたっていうことが、情報として先に知ってから、現実を見るっていう逆転の体験をしているっていうことが、えーっと20年ぐらい後、起きると思うんですよ。 僕はそういう世代に生まれて。で、実際にソビエトがえーっとあって、力を持っているときも何も知らないし、その東欧革命で何が起きて何が大変だったのか、まったく知らない。それを、誰かが発した言葉を介して僕が知っていくっていうことはすごい不思議だなと思って。僕はまったく知らない、そういうことがあったのかって衝撃を受けるっていうか。 まあ高校生、中学生までは、共産主義っていう、もうイメージ先行で最初はもうすべてが決められてる社会はすごく怖い、よくわからないって思ったっていうことが……でも今そこが、社会が変わっちゃったかもしれないけど、飛行機に乗って行けば行けるっていうのがわかる。それが僕にとっては大きかった。で、行けるとなると、そこで何が起きているのかっていう、行って訪ねれば何かわかるんじゃないかっていうのがまずあったから、そういうことを進めていったっていうのがまあ1つ、共産主義シリーズを始める一番最初の原点で、僕がその時間が経って変わってしまったときに、人々が何を考えていたっていうの、どんどんどんどん変化してしまうっていうところに、まあ、えーっと、興味があった、っていうのがまずあって。 で、今後続けるかどうかっていうのは、ちょっと僕にもまだわからない。だけど、あの本を1回まとめたから、これはこれで1回このままにして、次の展開を今考えようとしてるんだけれど、たとえばこれを共産主義シリーズの次、民主主義はどうなのかっていうのをずっと考えたいと思ってたんだけど、なかなかいいアイデアが…… 佐々木 難しいですね。 丹 羽 難しいんだけれども。でも、それはでも、共産主義を考えた次の展開として考えざるを得ないだろうっていう風にはいろいろ考えてはいるところ。で、それがドンピシャで民主主義がどうなのかっていう風に問うっていうことを、コンセプト的に考えるっていうことは、僕はタイプ的に無理だから。何か僕が経験した体験とか、何か直面した問題に引き合わせて、何かやるっていうことや、突発的に何か始めるっていう方が僕は向いているから。そこで何か当たれば、始めるかな。だから僕、「計画的に僕これをやりました」っていうのは後付けで説明できるし、共産主義も後付けで説明できるけど、当時やり始めたころ、何もわからなかった。本当に、東欧、すごい真っ暗で。 佐々木 ふと気付くと、ルーマニアにいたりとか。ヤバい。 丹 羽 そう、そういうところから始まって。自分で何やってるかわからない。「これ絶対に面白いに違いない」っていう確信があったからこそ始められた。だけど、それが同時に説明できたわけではない。でも、これが(共産主義シリーズを始めてから)5年経っちゃっているから、やっとこれから説明できるっていうところで。やっと辿り着きましたっていうところで、やっと本にできましたっていう、ちょっとこう、ズレた状態で。「先に作品できちゃってるから」っていうところで進んできた。 ― 未来の作品やプロジェクトを先に言っちゃう
佐々木 なるほどね。 丹 羽 今、実は霊に興味があって。 佐々木 霊? 丹 羽 背後霊。 佐々木 幽霊? 丹 羽 そうそう、背後霊とか幽霊って今バカにされすぎてて、これをもうちょっと復活したほうがいいんじゃないかっていうのが、僕の感覚の1つ。で、すごい説明できないことをすごい批判されて。オカルトだとか、大川隆法とかバカにされちゃってる。あれは本当にそうなのかって、その一抹の疑問として、ぼくはそれを思っている。だからそれがコンセプトになるかどうかっていう以前の問題で。僕はそこがすごい面白いと思っていて。ああいう人たちがああいうことをやっているっていうのは何か理由があるんじゃない。まあ、それが1つ。その背後霊とか、霊とか、普通に話をすると、宗教の話だと、みんな、表面的にはなんか、「宗教的だから駄目だね」っていう話に落ちちゃうんだけど、それを超えたところで、僕は何かできないかなってずっと考えているから、何らかそれに関するプロジェクトはできそうだなって思ってる。でも、それがどこに向かうかは、まだわかんない。でも直感として、霊っていうのはいいなっていう。 アツミ あの、ちなみにこの(歴史)本、3人くらい「幽霊(ゴースト/スペクタ)」っていう言葉を使っていて、何か兆候的ですよね。 丹 羽 そうかもしれない。だから共産主義っていうのも、僕らからするとわかんないけど、そこに住んでる人からすると霊でしかない、悪霊みたいな。 アツミ 「ガイスト」っていうと、ドイツ語で「精神」っていう言葉も入ってくるし。やっぱりその、「術」をめぐる人々の言葉とか物語を、本田さんに引きつけて言うと、スペクタ(幽霊)/スペクトル(範囲)っていう風に、イメージに落とし込んでいくというところが何か、丹羽さんの作品の魅力かなと思います。あと、「犯行声明」っていうところで、(「解釈による犯行声明」展示会場の)壁にありましたけれど、「2020年に、銀行の中に銀行の外をつくる」っていうものもありますね。 丹 羽 そう。最近は、未来の作品やプロジェクトを「先に言っちゃう」っていうことをやろうかなって思ってて。5年後の作品を今作っているっていうか……よくわかんないけど。それはただの予定じゃないかっていう。 本 田 この(歴史)本って、本のデザインについて質問なんですけれど、この「Historically」って書いてあるけど、(Historyの「i」のドットが)「i」じゃなくて、「y」ってなってるじゃないですか。それで何かヒステリア(Hysteria)的な観念に繋がるところがあるのかなと思って。 丹 羽 そうです。デザイナーがマケドニア出身で、本当に自分の国の旧ユーゴスラビアで経験している自分の歴史にかけて、それが今ヒステリア的に扱われている、っていうところにかけて。デザイナーのアイデアから来ています。 アツミ ヒストリーのヒステリアっていうところで、(歴史)本ではルーマニアのブカレストのキュレーター、エウジェンさんも言っていましたね…… というところで、そろそろ時間ですけれども。 丹 羽 もうこれで終えなきゃいけないのかな。1回締めればいいの。 アツミ そうですね。とりあえず、佐々木さん、ありがとうございました。 佐々木 あっという間でしたね。 丹 羽 ありがとうございました。じゃあもうこれで終わり。 アツミ (佐々木さんは)これからコンサートに行かれるそうなので。丹羽さんのパンク評っていうのをぜひいつか拝読したいですね。 丹 羽 ええ、ちょっと、トイレにすごい行きたい。 |
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